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論説10「イリコと鰹」 何事も例外はあるだろうが、讃岐はイリコ主体。大阪系は鰹と昆布が主体というのが基本的なスタンスであると思う。実際的には讃岐も色々な材料を使うと思われるし、大阪系においても椎茸やイリコを隠し材料に多少遣っても問題があるわけではない。 それはともかく両者の出汁がどちらが上とは中々に捉えがたい。これは好き嫌いの問題もあるし、また讃岐麺にはイリコ系が合うという可能性もある。ただ歴史的な立場から捉えると讃岐はイリコの産地として良質の製品が豊富であり、イリコ出汁が主体となったという事。大阪、そして神戸系は全国の物産が集まる場所であり、イリコは勿論として良質の昆布や鰹、様々な節迄を利用する事が出来、そこで超絶的な関西出汁が現出したといえるのである。関西系出汁が究極の高みに到達できた由縁である。 とはいいながら我自身イリコ系出汁も嫌いというわけでなく、特に讃岐に行けばイリコ出汁うどんを食べたいし、讃岐を標榜する店はイリコ出汁主体であれかし。あるべきという感性もある。実際イリコも美味しい出汁の一つである。 また人間と肉体的生理という立場に立てば鰹出汁もイリコ出汁も両方あるべきかと考える。医学的見地から考えると両方ともに時に応じて人間の肉体に必須の成分が含まれている考えられるからである。人間の肉体は実に微妙に、精妙に出来ており、また日々変化するものである。肉体に不足する成分(各種アミノ酸)が生じた時にどの成分が不足しているを知っているのは肉体であり、時に応じて(イリコ出汁)の讃岐うどんを、また時には大阪系うどんを食べたくなるのであると考える事が出来る。 ただ食べ物というものは体に良い成分ばかりではなく、悪い成分をどうしても含まざるを得ないものである。いや全方向的に悪い成分というものはひょっとしたらないかも知れない。ただある時の体調において、多すぎると体を害する物質というものはある可能性はある。ただそれもまた体に不足を来しているならば必要となる成分でもあるに違いない。 想定で語ると一般にイリコ出汁というものは多くの場合体に大変に良い成分も多く含まれが、多くの場合、余りありすぎると体に悪い影響を与える成分もある程度含んでいる可能性がある。それがアクという部分なのではなかろうか。しかしアクの部分も少しならば問題ではなく、そして若干は体に必要な成分でもあるだろう。 だからたまにイリコ出汁の讃岐うどんを食べると非常に感激して是ほど美味しいものはないと体が喜び、心が満足する可能性がある。それは県内人よりも普段鰹出汁になじむ県外人の方が可能性がある。我もたまには麺通団のイリコ出汁も美味しいと感じ時々食べる事ある。 しかし日常イリコ出汁となると少し飽きて来る面があり、美味しい大阪系うどんをやはり食べたいと思うのである。これはイリコ出汁のアクの部分の作用であり、蓄積すると味覚として拒否する可能性がある。具体的にはイリコ出汁の臭みが嫌だという反応となるだろう。またイリコの良い成分の部分も体としてそれほど多量に必要というわけではないという事なのではなかろうか。 そんなことをいうのならば讃岐人はどうなるんだと言われる可能性もあるが、伝統的立場から言えば県内人はイリコのアク部分を消してしまう智恵を持ってい可能性がある。そんなことが本当に出来るのかと疑われる向きもあるかとは思うが、一つには生姜を入れる事によってイリコ出汁のアクの部分を消す事が知られている。これはアクの悪い働きを阻止する成分が生姜に含まれいる可能性があるという事である。そんなものは大阪の讃岐うどんにも生姜つくではないと思われるだろうし、それは確かにその通り。しかし大阪神戸の讃岐うどんは最初から余りイリコを主体としない店も多く、昆布、鰹出汁でありながらスダチや生姜を慣習で入れるのは少しおかしなことなのである。 また讃岐では讃岐としての生姜の成分がある可能性があり、同じ生姜やスダチでも内容が違う可能性があり、また讃岐人の普段の食生活や生活パターンにイリコアクを除く秘密がある可能性がある。何度もいうように人間の体というものは実に精妙に出来ている部分があり、普段イリコ出汁、アクを多く食べているならばそれを消す作用の食品が伝統的に讃岐食として多くある可能性がある。食土不二と言われる由縁である。 それはともかくやはり一般において体になじみ易いのは大阪系の昆布、鰹の出汁であり、この両者が出汁の基本として全国に普及するのは体に良い成分が多く含まれているからと考えられる。そして何よりも体に悪い成分、アクの部分がイリコよりも僅少な良い出汁の元であるという事ではなかろうか。イリコ出汁のアクの部分を除くため、頭や腸を除くというやり方も高級店ではなされているようである。この点は鰹は最初から処理されているからこそ(特に高級や製品ほど)アクが少ないと考えられる。 いずれにしろ我が大阪出汁を出汁の至高として求めて止まざる理由である。 続きの考察は次回に。
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