論説2「空海の心」 空海が伝えた麵打ち秘法、それは単に超絶的な技術伝のみの話ではないと我は思う。それよりも重要なのはその奥に流れる心である。空海が本当に伝えたかったのは天竺、中華の皇帝料理、マンカンゼンセキ何ぞでは決してない。北京ダックも燕の巣もフカヒレスープ、女体盛りも我はそれなりに好きだが、そなんものを伝えても民衆救済に繋がるものでは決してないことを空海阿闍梨はちゃんと知っていたに違いない。
「貧乏人は麦を食え」……どこかの国の愚相がいった問題発言では確かにあるが、それには裏の意味に解釈してこそ深い意味がある。庶民の食物の小麦においてもそこに秘法を施せば皇帝料理を超えた超絶的な旨味が生まれる!
空海がかくした秘法を通じて真に伝えたかったものは何かを熟考せねばならぬ。彼が本当に忌諱したのは人の心の奥底に潜む貪りの心であったに違いない。故にこそ都にはその秘法を伝える事が出来なかったのだ。技術の形は伝える事は出来てもその奥にある心の世界は如何せん。奢り太った慢心の宮中貴族どもに理解できるはずがない……。 宮中に伝えることは最初から諦め、讃岐の地の民衆にその秘法は脈々と受け継がれた。
職人藝をケレン化して小麦をこねたものを法外な値段で提供する京大阪の商売点にはその秘法は存在しようがない。 そんな処よりも山中製麺所が出す60円の茹でててうどんの中に本物の空海秘伝があった。それは御布施の心がなければ成り立つ事ではない……。貧者の一燈は風か吹いても消える事なく、飢えた者に差し出し「うどんでもクウカイ」というのが商売を超えた御布施の心なのである。「お金なんかええが。御布施やったら五、六十円ほどおいてゆき」だから特に集金レジをいらないし、薬味は庭のネギを挟みで切ってまぶせばよい。テヌキにあらずして人の御布施の心を引き出す事に意味がある。一千年立って讃岐にその秘法と心がいまだ残っている事を慶賀したい。そしていまこそその秘法が大橋を通って表にでてゆこうとしている時だと思いたい。
そして神戸出身の人間としては神戸の地にこそそのような両者の秘法と奥の心を継承する真の秘伝うどんが形成される事を願いたいと思うのであるのだけれども。
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